(面)『カポーティ』

この物語は、1959年、文壇の寵児トルーマン・カポーティ
(フィリップ・シーモア・ホフマンさま)が小さな新聞記事に
目を留めたことから始まる。カンザス州の田舎町で農家の一家
4人が惨殺された、凄惨な事件。興味を抱いたカポーティは
ノンフィクションの新たな地平を切り開くという野望を胸に秘
め、幼馴染の女流作家であるネル・ハーパー・リー(キャサリ
ン・キーナー御嬢様)をアシスタントにして取材に着手した。
捜査に当たったアルヴィン・デューイ保安官(クリス・クーパ
ーさま)や事件の発見者を訪ね歩き、現場や遺体を見て廻り、
遂には逮捕された犯人二人組に接触。とりわけ、その一人ペリ
ー・スミス(クリフトン・コリンズ・Jrさま)との出会いは
彼の創作意欲を刺激し、壮大なノンフィクション・ノベル……
後に発表される代表作『冷血』の構想が彼の中で次第に膨らん
でいくのでありましたが、それは彼にとっての栄光と破滅が
交錯していく協奏曲の始まりにすぎなかったのであります。

この作品、実に書き易く、また一方でとても書き難い作品なの
であります。まず第一に、これは物書きの「業」を余す処無く
描いた作品であると言う作品であると言う事。新作のタイトル
は『冷血』にするとデューイ保安官に語ったところ、「それは
犯人の事なのか?それとも君(カポーティ)の事か?」と揶揄
される始末。
この程度の批判に参っていたら、作家稼業は勤まらぬとタイプ
ライターをパチパチと打っている文士、カポーティでありまし
たが、流石に最愛の相方であるジャック・ダンフィー(ブルー
ス・グリーンウッドさま)から、「優秀な弁護士を雇うのは、
所詮は君の利益の為だろ?」と返されたのには痛かった……。

もう一つの見方としては、犯人のペリー・スミスとカポーティ
の関係性なんですね。ここにこの映画の真価があると踏んでお
ります。最初は好奇心からだったのでありますが、次第に打ち
解けていき、お互いの家庭環境が似ていたこと迄告白してしま
うのでありますけれども、肝心要の犯行当日の事を語らない事
にキレたカポーティは、どちらが支配者であるかを見せ付けて
彼の前から姿を消してしまう。
そうなんですよねぇ……擬似的に親和関係を築いていても、ど
こかで崩壊してしまう瞬間がありまして、この場面がそうであ
った。

で……これを含めてこの映画を観ていて思った事なんですが、
映画と言うメディアって非常に良く出来ていて一人の人間につ
いて身長、体重、人種、髪の毛の色、癖、声の質、そしてさま
ざまな性格について複合的に2時間足らずで表現出来てしまう
優れた手段なんですよ。ですから……我々は、カポーティって
言うのは「これこれこういうキャラ」で、ペリー・スミスの場
合は、上半身がマッチョで下半身が貧弱(ここは見せ方がさり
気なくて(・∀・)イイ!! )そして素人離れした素描力を見せるの
でありますし、御丁寧に彼の実姉による解説付き……。

そう……観客にとっては二人共に「判ってしまう」のでありま
すが、現実問題に置き換えてみると、人と人との接点って点で
あったり線であったり、精々頑張ってみても「面」の繋がりし
か無いんですよね。

つまり、映画の中に再び戻るとカポーティがペリー・スミスと
何十回も面会したとは言っても、その時々の「言葉」とか「態
度」でしか相手を判断出来ない訳でして、ペリー・スミスが本
当の事を言っていたのか?は、非情な言い方をしてしまえば
どこから何処まで行っても「彼の想像+スミスの言葉」でしか
無いんですよ。それは、スミスのみならずカポーティを取り巻
く人全てに「本当の事を言っているんだろうか?」と言う疑い
のヴェールが被さってしまう様な感覚に襲われたのですね。

逆説的に言えば、これはそれだけこの映画が「真実」に迫って
いたと言う証でありまして、カポーティと言う複雑怪奇・魑魅
魍魎の化け物を通して浮かび上がってくるものは、そうなんで
す。一番見たくない自分の姿だったりする訳でして……。
それに正面切って向き合える人も居れば、自分の様に過度に露
出してしまって、本当に見せたく無い部分を隠してしまう……
そう、カポーティとはわたしなのであります。

初代「大河浪漫を愛する会」大倉 里司
(2006年10月10日 日比谷シャンテにて鑑賞)

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