(縛)『めぐりあう時間たち』

最初の舞台は、第一次世界大戦後の1923年ロンドン郊外。閨秀作家ヴァ
ージニア・ウルフ(ニコール・キッドマン様)は「ダロウェイ夫人」を執筆
している。その時、姉とその子供たちが彼女の邸宅を訪問していた。
そして、それから時は流れて、第2次世界大戦後、繁栄を迎えている195
1年ロサンゼルス、妊娠している主婦ローラ・ブラウン(ジュリアン・ムー
ア様)は、夫ダン(ジョン・C・ライリーさま)のために息子リッチー(ジ
ャック・ロヴェロくん)とバースデーケーキを作り始めていたが、何だか気
が晴れない様子。
そして、最後の舞台は、21世紀を迎えた紐育。編集者クラリッサ・ヴォー
ン(メリル・ストリープ様)は、エイズに罹っている友人の作家リチャード
(エド・ハリスさま(*^^*)ポッ)の受賞パーティ準備に奔走していた。
しかし………時を越えた3人の女たちの一日は、それぞれ分水嶺を迎えよう
としていたのでありました。

これ程迄に豪華絢爛なスタッフとキャストが揃った映画って言うのも非常に
珍しいのでは無いでしょうか?

まず着目したのは、脚本のデビッド・ヘア先生!映画そのものは、傑作とは
言いがたかったけれどもテーマは鮮烈だった『プレンティ』、監督も務めた
『パリスbyナイト』そして大好きな小品『ストラップレス』と一貫して、
20世紀を生きた女性像を描き続けた脚本家です。

キャストの方も、オープニング・クレジットを見ていてビックリ仰天!
良く出来た鯛焼きのように隅々まで知っている方々の名前がズラリ。

ただ唯一の気がかりだったのは、監督のスティーヴン・ダルトリーさまの
前作『リトル・ダンサー』を世評とは違い、自分としては全く評価してい
ないので力量として不安があったのと、今回各最優秀主演女優賞を総ナメ
にしたニコール・キッドマンさまの顔が嫌いだったんです。

美人とは思うけど、「人情味に欠ける顔」ではありませんか?>ニコール

今回は役作りにあたって、「美人で無い」設定にし、彼女が持つ神経症的
なイメージを逆手にとって上手く処理しております。<かなり辛辣(^^;;

で………今回の映画は様々な解釈が生まれる作品ですが、自分がパンと最初
に持った印象は、「完璧な調和に因って生み出された不調和」でした。

この「不調和」って何処から来るのか?と言えば、「愛と言う名の拘束」
なんですねぇ。(--;)

判ったつもりであるのに判っていない………自分もそうですが、他人と似
た部分を見付けるとそれを拡大解釈し、過去の事例に当て嵌めて「〜は、
こう思っているんだろう」と納得して、不安に思えば問い質す等の行動に
出ます。最初のヴァージニアのケースでも、夫のレナード(スティーヴン・
ディレインさま)は、精神を煩っている妻の為に多大な犠牲を払い、郊外
へと移り住んだ。
それが自分を愛する為の行動と半分は判っているんだけど、壊れてもイイ
から倫敦と言う大都会で住むことをもう一人の彼女は望んでいるんです。
有難い存在ですけど、時折ウザッタイ存在………それが旦那さま。

もっとウザッタイのが、主婦ローラのケース。夫であるダンは、ガタルカナル
島でC中隊に居て日本軍と戦ったのかどうかは定かではありませんが、
「典型的な50年代理想的アメリカ郊外型世代」であります。言わば団塊
の世代米国版♪
こと細かく性格描写が為されている本作キャラクター造形の中で、唯一、
単純化されている様に感じたのが夫のダン。
可哀想なのは息子のリッキーでして、母親が常に「完全なるもの=プレンティ」
を追っているのを感じていて、それを補うために常に気を廻し、母親の顔色
を伺っている。それでいて自分は何も出来ない無力感。
ここで描かれているのが、ハーシーメイドのチョコレート・ケーキが幅を利か
せていた時代。大量生産=画一化された価値観を大味でカロリーばかりが高い。
そして、毒々しい合成着色料の青色は、あたかも「欺瞞」をデコレーションし
たかのような彩り。

最後に登場するのが、クラリッサでして、彼女だけは自分が「縛る側」に居る
女性です。
編集者としての献身と「昔のよしみ」=男女関係によって築かれた友情によって
末期エイズ患者のリチャード(エド・ハリスさま(*^^*)ポッ)と関係を続けている。
リチャードにとってみれば、恐らく誰も訪れないであろう部屋に定期的に訪れて
くれる数少ない人間であり、ゲイとレズビアンという性的マイノリティからして
も気が合うことが多かったであろうと思います。
でも………やっぱり、男の方が好きなのは否めませんし、元彼のルイス(ジェフ・
ダニエルズさま(^o^))も受賞祝いで掛け付けながらも、どうも会っている気配
は無さそう。
リチャードにとっては、クラリッサの存在が必要である反面、とても鬱陶しい一面
があって、それが逆転の構図となっているのが興味深いです。

必要でありながら、時折とても鬱陶しい他者との関係………日常と言う名の仮面を
ひっぺがして見たら……と言うのが、この映画の一つの軸である気がしております。

それぞれに転機と言うか………決着を見るんですが、それぞれの決着のつけ方に
興味を抱いたんです。

ヴァージニア=自殺 肉体的にも精神的にも消え去る事
ローラ=蒸発 肉体的には生きているし、精神的には再生
クラリッサ=継続 あるが侭を受け入れ、人生を見なおす

それぞれに「代償」を払っておりますが、「後悔して何になるの?私は生を選んだ」
と言う一言にデビッド・ヘア先生が生涯追い続けた一つの真実を見た気が致しました。

初代 「大河浪漫を愛する会」大倉 里司
2003年6月7日 新宿ピカデリー2にて鑑賞

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