(人)『パッション』

世界史の上で人々の心に最も影響を与えた人。イエス。
彼のゲッセマネの祈りから、十字架に磔にされて息絶えるまでの12時間の
物語。

自分の場合仏教徒なのですが、イエスに関しての見方が一番似ているのは、
イスラム教から見たイエス像。つまり、モーゼとかと並ぶ偉大なる「預言者」
だったと言う視点なんです。

キリストと言う名称は「救世主」と言う意味でありまして、偉大なるお方と
は思っていますが、「救世主」として信じては居ない。つまり非キリスト者
なんですね。(^^;

何だか口上が長くなりましたが、この映画位書くのが難しく、また簡単な映画
も珍しいと言えるかも知れません。簡単な方から書くと「4大福音書」の忠実
なる映画化と一言で済んでしまいますが、それでは読者の皆様も自分も納得
しない訳でして……。今回のイエス(ジム・カヴィーゼルさま)は全体像を
測ることが出来ない存在なんですね。

昔、遠藤周作先生はこんな事を書いていました……。

「”聖書”は、イエスの側から読むと面白く無く、腹が立つことばかり書い
てあるが、”使徒”の視点から読むと共感出来る」

ホントに卓見だと思いますね。それでは、バラバでは無くバラバラにしてこの
映画について語ってみると致しましょう。

イエスは置いておいて……と書きそうになりましたが、この映画の中では、
大工時代の彼が一番好きかもしれません。言わば普通のお兄さん。
母であるマリア(マヤ・モルゲンステルンさま)との関係も、母と息子の
関係が良く描きだされていて、確かにそうだよなぁ……とシミジミ来る所が
多かったのです。
そして、『ダヴィンチ・コード』で再び脚光を浴びたマグダラのマリアを
モニカ・ベルッチ御嬢様が演じていますが、この件はノーコメント。
「罪無き者からまず石を投げなさい」(ヨハネの福音書 8章7項)
でありまして……余り身近に感じることは出来なかったですねぇ……

使徒編では、今回出て来るのは、イスカリオテのユダ(ルカ・リオネッロ
さま)、ペテロ(フランチェスコ・デ・ビートさま)、そしてヨハネ
(フリスト・ジヴコヴさま)この3人。

イスカリオテのユダですが、自分的には、後世に何で此処迄悪く言われなく
ては為らないのかが謎なんですよ。
確かに彼はイエスを裏切った……のは事実ですが、裏切ったと言うよりも
「期待していた」の部分が大きいのでは?と考えているんです。
福音書の中にもアチコチに出てくるんですが(例 ルカの福音書 22章
1項)どうやってイエスを捕らえるかの相談をしている訳で、機会は幾ら
でもあった。そして群集が居ない時を見計らって……(同章8項)となる
のですが、ユダヤ教を牛耳る大祭司カヤパ(マッティア・スブラージアさま)
側から見れば、身内から裏切り者が出た方が好都合。スキャンダルの種に
なる訳。ところがユダにはユダの考えがあって、「奇跡」を起こしてくれる
ものと期待していた節があるんです。
一説によると彼は、反ローマ派の急先鋒で、「指導者」を求めていた……
ここでモーゼの如く大奇跡を起こしてくれれば民衆は団結するだろうと言う
説がありまして、共感してしまいました。少なくても金目当てでは無いのは
間違い無い所。

もう一つは、もし仮にユダが裏切らなかったら?!と言う展開なんです。
えらく締まらない宗教に留まっていたと思うんですね。少なくとも弟子達が
身を挺して布教に励んだなんて展開には為らなかったであろうとは予想が
付きます。十字架に磔になって、人類の罪を贖い、復活したと言う驚異の
展開があるからこそ、をを!と弟子も奮起したと思います。

で……その奮起したお弟子さんの一人が、ペテロ(フランチェスコ・デ・
ビートさま)なんです。実は12人の弟子の中で一番自分が好きなのは彼
でして、性格を推測するとオッチョコチョイの熱血漢。最後の晩餐の席で
「主よ、ご一緒ならば牢であろうが、死であろうが覚悟は出来ています」
(ルカの福音書 22章33項)ところがアッサリとこう言われてしまい
ます「今日鶏が鳴くまでに、あなたは3度わたしを知らないと言うでしょう」
(同章 33項)実際問題として、ホントにそうしてしまうんですが、それ
は御師匠さんの行方が気になって、審議の場に出向いて行ったからなんです
ね。そこで「一緒に居たでしょ?」と言われて「わたしはあの人を知らない」
と三回目に言った時、丁度鶏が鳴いて、ペテロは外に出て激しく泣いた。と
あります。ところが、そうなる前に幾つかの事情がありまして、イエスが捕
まりそうになった時、剣を持って兵士と闘い(ヨハネの福音書 18章10項)
兵士の耳を落としてしまっているんですねぇ。
そして、とうの昔に他の弟子が逃げているのに、彼だけが心配してその場に
居たと言うのは相当な事です。

自分だったら、ペテロの如く裁きの場に赴くことも無く、他の弟子同様に
身を隠していた筈です。「わたしはあの人の事を知らない」と誰でも言う
でしょ?言わないと断言出来る方が居られたら、相当人格高潔か?或いは
自分自身の事を知らない人だと思っています。(と……言ってしまうのも
高慢なのですが)

ペテロについて付け加えるならば、最後は逆磔にして殉教したそうです。
普通の磔の方がまだ楽かも知れない。死因は【脳出血】だっただろうと
推定されます。

この映画では、もう二人忘れがたい人物がおります。
福音書を読み直してみるまでは、「創作」だと思っていたのですが、
イエスが背負ってゴルゴタの丘に行く最中に代わりに背負わされた人
が居た事です。彼の名はクレネ人のシモン。二児の父親で田舎から出て
通り掛かりを呼び止められて背負わされた(マルコの福音書 15章21項)

最初は罪人の十字架を背負わされるとは……トホホ……ついて居ない
と感じていた彼ですが、総督の兵士が余りにもイエスを理不尽に嘲弄し
虐待をしていたので見るに見かねて「その人に手を出すな!それ以上
続けたら俺は十字架を担ぐのを止める」と言うシーン(これは創作)
ですが……十分にあり得る状況だったかな?と思いますし、沿道の
周りで罵声を浴びせている人も居れば、その陰で泣いている人も居た。
健常者の自分が担いで持つにしても、余りに重いこの十字架を、半死
半生のこの人が持つ事はどれだけ大変なんだろう……それを実感として
身体で感じたからこそ出た言葉だと思うんですね。
一時的にしても「同じ苦労」をしたから、シモンはイエスを他人とは
思えなかった。それが故にこのシーンを入れざるを得なかったと、自分
はそう解釈しています。

そして、もう一人は、ルカの福音書23章38項〜43項迄出てくる
十字架の上の3人のシーン。何故か絵画的には伝統的にイエスが中央。
左側がイエスを愚弄した罪人、そして右側が改心した罪人と言う構図
になっております。お約束に従って右側の罪人の告白が泣かせます。
「我々は自分のしたことの報いを受けているのだから、此処に居るの
は当然です。でも、貴方は悪いことは何もしていない聖なるお方……
せめて御国に着かれたときには、わたしの事をどうか思い出して下さ
い」

「このシーンで、わたしは部屋で激しく泣いた」と書いてしまいまし
たが(^^;ルカの福音書が愛され続ける理由の一つは、この描写が4つ
の福音書の中で唯一あるからだろうと自分は思っています。

この感想でマグダラのマリアの項を割とアッサリと処理したのは、
「罪人に対しての赦し」と言うか、人が死の直前に何を思うのか?
善行か?はたまた悪行か?ふと思い返すと悪行の方は、嫌になる位に
頭を過ぎるのですが、「善行」と思える程の事は自分はしていたの
だろうか?「罪無きものからまず石を投げなさい」では無いですが、
生きているからには、多少なりとも「悪行」は行っているもの……
だからこそ、この「わたしの事をどうか思い出して下さい」決して
「わたしも天国に連れて行って」とお願いしている訳では無いのです。
この方が赦してくれれば、自分が行った罪そのものは消えないけれ
ども、せめて自分の気持ちは楽になる……そんな魂からの絶叫なの
です。

イエスの生涯の偉大さとは、そうした係わった者たちの生き様を
余すところ無く炙り出した事にある。そう言ってしまうと不遜で
しょうか……。

かつて、ジム・カヴィーゼルさまが『オーロラの彼方へ』で日本
に来られた時に、インタビューでこんな事をおっしゃっておられ
ました。

Q.「もしそうした過去と通信出来る無線機があったら誰と話し
たい?」

A.「イエス・キリストです」

ジム・カヴィーゼルさまの場合、『シン・レッド・ライン』の
ウィット二等兵と言う純真無垢なキャラそのまんまの方であろうと
自分的には信じていますんで、そういう答えになったと思うんです。

自分の場合、イエスと話しても退屈するだけだと思うから、彼の周
りに居た方々と「貴方はあの時どう思い、それについてどう考えて
いたのですか?」とお茶菓子でも食べながら語り合いたいものです(^^;

ふう……やっとこれで観れて……やっとこれで書けた。

初代「大河浪漫を愛する会」大倉 里司
(2005年5月15日 DVDにて鑑賞)

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