(癒)『この森で、天使はバスを降りた』

二度目の鑑賞です。

画面を包む、アンドリュー・ワイエスの諸作品を思わせる「光」。
ベラスケスを思わせるシェルビーが育てている赤ん坊の眼。
極めて絵画的な映画です。感心したのが、どのシーンを見ても
きちんと「画面構成」が取れていたこと。
それは、パーシーが、ハナの家を案内され、最初に部屋に入った
ときに僕は、完全に参ってしまいました。

映画的に観れば、最初の5分間で、主要登場人物を全て出して
いる所が上手いと感じたのです。

この映画には、「悪人」は一人も登場致しません。だから、二度目観た
時は、それが故に恐ろしい映画でもありました。

アリソン・エリオット演じるパーシーと言う、一人の女性がギリアドと
言う北の町に降りたときから、人々は段々と彼女の感化を受けて
変化してゆく………。

しかし、小さな善意が積み重ねられ、至福の時を迎えようとする時、
あの「事件」が元で一瞬にして人々の「善意」のベクトルが変わった。
しかしベクトルの向きが変わったことに気付かず「善意」のまま突き
進んで行く人々…………。
それは新たに悲劇を生む要因となったのです。

ギリアドと言う非常に小さな町を舞台にしながらも、非常に普遍的
な問題を提示しております。

ただ、基本的には、「光の癒し」の映画です。

ジョーの父親で、一日中テレビを観ながら椅子に座っているアーロン
が、応募された手紙を読んで、初めて家の外に出ます。
その光景の美しいこと。生まれてからこの方、この町から外に出た
ことが無く、テレビだけが外部との接点だった……。
その意味においては、刑務所に居て外を見ることが出来なかった
パーシーと同じように「檻」の中にいたのでしょう。

アーロンは初めてこの土地の素晴らしさを認識するように僕は思
えましたし、無言のまま優しくカメラが捉えているところが素晴らしい。
これを「癒し」と言わずして何と呼びましょう。

あと、「食事」、「料理」のシーンさえ観れば、僕はその映画の出来の
善し悪しを判別できる自信があります。
パーシーが、グリルでハンバーグを黒焦げにさせながら焼くシーン。
スプーンを片手で、歪んだ持ち方をしながら、スーブを平らげるシーン。
共に彼女が過ごしてきた「荒んだ人生」を一瞬にして切り取った秀逸
な場面です。このところだけで、ほぼ満点に近い出来です。

僕が一番感動したのは、彼女が森の中に住んでいる「ジョニー・B」
にパンを届けるときに、夜露に濡れないようにパンを布で包みます。
優しく、そして美しく「愛」がこもっております。
あのパンのふっくらとした感じ、口に含んでも居ないのに、一瞬に
して「食感」すら感じてしまう、イメージの豊饒さ。

キャラクターで言えば、ウィル・パットン様が演じた、ネイハム・
ゴダードが光ります。二度目の鑑賞時は完全に役の中に没入しました。

僕は、彼の気持を誰よりも知っております。

従兄弟であるイーライが、あんなに「光輝く存在」でなかったら、彼
もああなって居なかったでしょう。

シェルビーが語るには、「彼は背が高くて、優しくて、強くて4年連続
の陸上のチャンピオン」だったわけですから。
こんな人が従兄弟にいたら、誰だって嫉妬しますよ。(笑)

ネイハムにとっては、自分は常に、イーライの添え物的存在に
甘んじて居なければならなかった。
女の子がネイハムに近づいたとしても、二言目に出るのは、必ず
イーライの話題だったのでしょう。

イーライがベトナムに志願した後も、自分は戦場へと行かなかった。
後ろめたい思いも数多くしたに違いありません。

それが故に勉強に励んで、不動産業者の資格まで取った。しかし、
好景気に沸きかえっていた時代は過ぎ去り、自分が納得していない
女性であったシェルビーと言う女性と「妥協」の結婚をした。

彼が保安官に会う、最初のシーンで、ネイハムはブルーのコーヒー
カップの縁をいじっておりますよね。
そして、話しをしている最中に手の平の部分で飲み口を隠そうと
しております。これは、ボディランゲージで言えば、本心を隠している
人が多く取りたがる行動です。
つまり、保安官にすら本心を打ち明けてはいなかったのです。
この町で彼が愛していたものは、叔母であったハナと、シェルビーとの
間で出来た子供だけだったのでしょう。

叔母の事を考えて、保安官事務所に行ったのは良いのですが、彼が
不在の為に、金庫から金を取り出し、袋に入れた………。

そして、悲劇が起こったわけです。

そして、パーシーの死で、彼が唯一人、壇上でこう告白致します。

「私は、彼女の事を知っているつもりで、実は何も知らなかったのです」

実に痛いセリフです。

これは、僕には「本当に」良く分かる言葉です。
「知っているつもり」で人を非難して、後でその人が行っていた「真実」
に気付いたときの痛み。それにも係わらずもう一度同じ過ちを犯して
しまう愚かしさ。
それを彼が認めたところに、真の「勇気」を見出しますし、あの場で
彼が誰も非難しなかったところが立派です。

僕だったら、それを語ったあとに、彼等の事を口汚なく罵るでしょうね。

「でも、貴方達にも責任はあるんだよ」と。

自分のことを棚に上げておいて、自己弁護を図る僕は、ネイハム様の
爪の垢でも煎じて飲む必要がありそうです。

「大河ロマンを愛する会」 大倉 里司(HCD05016@nifty-serve.or.jp)

 

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