(剣)『グラディエーター』

監督のリドリー・スコットは語った。「私たちが作っているのはフィクション
で、考古学を研究しているんじゃないんだからね」と(プレスシートより引用)

とは言え、或る意味で非常に古代ローマ的な舞台と、ルネッサンス美術の美し
さと、現代的な思想が入り交じった映画です。賛否両論別れているようですが
自分はかなり好きです。

時は、A.D180年大羅馬帝国。時の皇帝マルクス・アウレリウス(リチャ
ード・ハリス様)の命により、ゲルマン民族制圧に乗り出したアエリウス・マ
キシマス将軍(ラッセル・クロウ様)は重なる戦功と清廉潔白な人徳によって、
皇帝から絶大な信を寄せられておりました。このアウレリウス帝には二人の子
がおり、一人はルッシラ(コニー・ニールセン御嬢様)、そしてもう一人はコ
モドウス(ホアキン・フェニックス様)羅馬史上女帝を発てる前例が無いので、
後継者はコモドウスと………本人も、廻りの人間もそう思っていたのですが、
皇帝の腹は、マキシマス将軍に決めて、皇帝政治より元老院政治に戻す積もり
だったのです。これを聞いたのがマキシアスとコモドウスの二人……。マキシ
アスは、これを保留にし、コモドウスは……そりゃないよ(--;)と言うことで
父アウレリウス帝を殺害する……で、目の上のたんこぶとなったマキシマスと
その妻と子を処刑しようと考えていたが……マキシマスのみが生き残ってしま
い……何故か(?)奴隷商人プロキシモ(故、オリバー・リード様)に売られ
てしまう。行き着く先は剣闘士試合場だった……数多くの戦闘(と……言うか
地方巡業)を重ねていき、いよいよ羅馬大コロシアムに招聘されることとなる。
そこで出会ったのが憎き皇帝となったコモドアスであった……。

単なる遣唐使(こちらの方が文化的で好きですが(^^;;)為らぬ剣闘士映画だと
思っていたのですが、かなり奥深いテーマを含有しております。先帝のアウレ
リウス帝の決断ですが……彼に関しての史実はこれから当たってみる積もりで
すけれども、羅馬帝国史に置いては、かなり部下に殺された皇帝が居るんです
よね……コモドウスの様な無能で残虐な性格だったら、こりゃ駄目だと判断し、
言わば親心で摂政的な立場で姉ルッシラとマキシマス将軍を付けようと考えた
のでしょう。でも、コモドウスは自分が無能であることへのコンプレックスか
ら「権力」への階段を上ることのみが目的となってしまい、具体的政策は持ち
あわせて居なかったことが良く判る……これでは、何れは失脚の道を辿ります。

で……姉のルッシラのキャラクターが面白い。彼女はそこそこ野心家でもあり
ますが、「宮中政治」で生き残る術を知っている女として描かれております。
彼女の目的はただ一つ、息子のルシアスを次期皇帝に据えること…もっと権勢
欲があれば我が子ネロを皇帝に据えようと画策し、夫クララディウス帝をはじ
め数多くの政敵を毒殺したアグリッピーナ(A.D.15〜59年)の道を辿
っていたのかも知れません。(調査如何によって、この辺は後に書き直す可能
性大ですm(__)m)


次いで面白いキャラクターは、奴隷商人のプロキシモ。彼は元々剣闘士だった
のですね……で、今は元締めなのですが。このキャラクターの深さに舌を捲き
ました。と言うのは当時の世相としては「暴力行為の発散」として「剣闘士」
の存在が必要不可欠だった……今は「拳闘&格闘技」ですか……自分は見るの
が嫌なので観ませんけれども……闘っている人にも、それぞれに人生があるこ
とは知っているつもりです。話が横道に逸れましたが、「これは無くならない
し……どうせやるのならば、勝手を知っている自分がやるしか無いのでは無い
か?」と思った部分も有るのではと思っています。彼は完全なる善人では有り
ませんし、戦闘に不向きな人間は陶汰されるのも仕方無いと思っている……で
すが、「剣闘」自体は無くならないのです。仏教徒的な発想かもしれませんが
「彼等を往生させられるのは自分しか居ない!」と思っていたのでは……と思
います。彼等が無駄死にするのは、出来るのならば遣りたくないが……ギリギ
リのところで引き受けてしまい……その贖罪行為として、「急に善人に為るの
か?」と言う台詞に繋がっていくのでしょう。(涙)

美術面、服飾関連では、冒頭のゲルマン民族侵略シーンでの美しさは、ブリュ
ーゲルや、ボッシュ、デューラー等の15世紀前後に活躍した画家の作風を思
わせます。で……一番気に為ったのは羅馬市内(?)での元老議員などが着用
している「トガ」(この映画では赤紫の”線条”があったのか?素材は麻か毛、
絹と綿の混紡が用いられました)はまだしも資料が沢山あるので良いのですが、
そのゲルマン民族侵略シーン(断じて解放ではない!)でマキシマス将軍が毛
皮を付けていた点なんです。寒かったから……と言う指摘を受けそうですが、
あの毛皮は防寒用と言うよりも「装飾」としての意味合いが強く、毛皮文化は
12世紀あたりから活発になりますが、それは「裏地」として使われるものだ
ったのです。毛皮が表に出てくるようになったのは14世紀半の絵画から……
で、全盛を誇っていたのがルネッサンスの大巨匠ティッツアーノがパンと思い
浮かんだのですね。ラッセル・クロウ様のマキシアス将軍の肖像画はティッア
ーノに委託するのが一番じゃないのかな……と図らずも思ったのでした。

「大河浪漫を愛する会」大倉 里司
(2000年5月18日 完成披露試写会 丸の内ピカデリー1にて鑑賞)

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